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生涯旅人、賀曽利隆の旅日記 60代編

アドレス日本一周 west[184]

投稿日:2013年6月11日

「名月や 北国日和 定めなき」

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 大津を出発。琵琶湖西岸の国道161号を北へ。湖上に鳥居の立つ白髭神社を参拝し、今津から琵琶湖北岸の海津へ。
 古い町並みの残る海津から滋賀・福井県境の山中峠を越えるとそこは「北国(ほっこく)」。越前、加賀、能登、越中、越後の「越の国」だ。
 福井県に入ったところが山中の集落。山中峠は山中の集落名からきている。
 山中峠を下ると国道8号に合流するが、その合流点近くが愛発(あらち)。愛発小学校がある。
 愛発といえば、鈴鹿、不破と並ぶ「古代三関」のひとつの愛発関で知られている。
 しかしその愛発関がどこにあったのかは、今だにわかっていない。この時代の関は関所というよりも要塞のようなものだった。
「愛発越え」ともいわれる山中峠の歴史は古い。
 日本海の敦賀と京都を結ぶ峠で、京都名物「ニシンそば」の身欠きニシンは、この峠を越えていた。
 身欠きニシンは北海の産物。それが日本海航路の北前船で敦賀港に送られ、山中峠を越え、琵琶湖経由で京都に運ばれた。京都は昔から小浜同様、敦賀とも深く結びついていた。敦賀には今でもニシン倉が残っている。
 敦賀に到着すると、前日にひきつづいて越前の一宮、気比神宮を参拝。境内には芭蕉像がある。
 芭蕉が「奥の細道」で敦賀に到着した夜はすばらしい天気で、満月とほとんど変らない十四夜の大きな月が出た。
 芭蕉はここでは福井から同行してくれた洞哉(等栽)と仲秋の名月を見るのを大きな楽しみにしていたので、「明日もこんなにいい天気になるだろうか」と旅籠「出雲屋」の主人に聞いてみた。だが宿の主人に「越路の習ひ、なお明夜の陰晴はかりがたし」(北陸の常として、天気が変わりやすいので、明日の夜は晴れるかどうかわかりませんよ)といわれて一抹の不安を感じてしまう。
 芭蕉はそのあと「気比の明神」に夜詣りする。
「どうぞ明日の夜は晴れますように!」
 と祈ったに違いない。
「気比の明神」とは気比神宮のことで、神社の境内には神々しさが漂い、松の木の間からは月光が漏れ差していた。神前の白砂はまるで一面に霜が降りたかのように見えたと芭蕉はいっている。芭蕉はここでは気比神宮にまつわる昔話に思いを馳せた。その昔話というのは「お砂持ち神事」の由来にもなっている故事だ。
 正安3年(1301年)、時宗の教祖、遊行上人が諸国巡錫の際、敦賀にも滞在した。
 その当時、気比神宮の西門前の参道とその周辺は沼地だった。
 参拝者が難儀しているのを見ると、上人自ら先頭に立ち、神官や多くの氏子らと一緒になって浜から砂を運び参道などの改修にあたった。
 それにちなんで今日まで、時宗の本山、遊行寺(神奈川県藤沢市)の管長が交代するときは「お砂持ち神事」がおこなわれるという。
『おくのほそ道』にある「自ら草を刈り、土石を荷ひ、泥ていをかわかせて、参詣往来の煩ひなし」は、そのことをいっている。道路をはさんで気比神宮の前に建つ「お砂持ち神事」の像を見ると、そのときの様子をうかがい知ることができる。
「古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひたまふ」とあるように、芭蕉の時代にも、「お砂持ち神事」はしっかりとおこなわれていた。「月清し遊行の持てる砂の上」。これも「お砂持ち神事」を詠んだ句である。
 芭蕉が敦賀で一番、期待したのは、ここで洞哉(等栽)と一緒に仲秋の名月を見ることだったが、十五日は「出雲屋」の主人がいったように天気は崩れ、なんと雨模様…。芭蕉はさぞかしガッカリしたことだろう。それが「名月や 北国日和 定めなき」の句になっている。
 気比神宮の参拝を終えると、町中の洋食店「敦賀ヨーロッパ軒」で「ソースかつ丼」(890円)を食べ、敦賀を離れた。

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白髭神社を参拝
白髭神社の湖上の鳥居


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気比神宮の本殿
気比神宮の芭蕉像


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「お砂持ち神事」の像
「敦賀ヨーロッパ軒」の「ソースかつ丼」


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